「小さな親切、大きなお世話」という言葉がある。
ありがた迷惑という意味だが、親切をしている人は「いいことをしてあげた」と思っているだけに親切を受ける方は断りづらい。
良かれと思ってした親切が、相手を嫌な気持ちにさせたり困らせたりするのは悲しい。
親切にされた方も喜ばなければ悪いのに、素直に喜べない自分の気持ちに苦しむことになる。
小学生の時、陶芸教室に行って自分の好きな食器を作るという授業があった。
そこで私は陶芸教室の先生に小さな親切を受けるのだが、後に大きなお世話になってしまった体験談を紹介しようと思う。
陶芸教室で作りたい器を決める
私は当時、陶芸で作るお皿やコップなどにはそれほど興味がなく、母が欲しいと思う食器を作ることにした。
ふだん私は兄や父親と喧嘩することがしょっちゅうで母を困らせてばかりいた。
何か母が喜ぶことをしたくて、「今度陶芸教室があるけど欲しい食器はないか」と聞いてみることにした。
すると母は「抹茶茶碗が欲しい」と私に言った。抹茶茶碗とはこういう感じのお抹茶を飲む食器だ。
部屋で紙に自分の理想とするお抹茶茶碗のイメージを描いたらわくわくしてきて明日の陶芸教室が待ち遠しかった。
上手に作れるかなとか、母は喜んでくれるかなとか色々考えながら眠りについた。
陶芸教室当日
陶芸教室は、まず手びねりでおおまかな器の形を作り、手回しろくろを使って形を整える作り方を教わった。
手びねりと手回りろくろの作り方は以下のような手順で作る。
- 底を作る
- 紐状に丸めた粘土作る
- 紐粘土を底に重ねて接着させる
- 紐粘土を重ねて高さを整える
- 最後にろくろで表面を滑らかにする
陶芸教室の先生は無口な職人気質のおじさんだった。先生の作り方の見本を見た後、みんなそれぞれ一斉に作り始めた。
私は昔から出だしが他の人よりも遅い。よく言えば自分なりに丁寧に作っているのだが、悪く言えば行動がとろいのだ。
私は先生の指示通り空気が入らないように、隙間ができないように丁寧に作っていた。まだ手びねりの段階だったが経過は順調だった。
集中しながら作っていたのだが、陶芸教室の先生が腕組みをしながら私のことをじっと見てくるのが少し気になった。
先生が自分の作品にしてしまった
やっと手びねりの工程が終わり、ろくろの作業に取りかかることにした。
しかし、初めてなので思った通りになかなか形が作れない。私は何とかコツをつかもうと試行錯誤していた。
すると腕組みして見ていた先生が突然私の方につかつかと歩み寄り、無言で場所を変わるように促してきた。
私がろくろの前を離れると、先生は勢いよくろくろを回し始めた。
すると先生の手の形に沿って綺麗な器が姿を現し始めた。異常に高さの低い皿のような器が…。
しかしまだ高さを変えればまだ修復は可能そうだった。私は先生にもういいよという意味をこめて「ありがとうございました」と声をかけた。
先生は私の言葉を無視してできあがった作品にじっと見入っていた。そして、無言でまたろくろを回し始めた。
先生は手慣れた手つきで器の縁にレースのような装飾を作り、底に渦のような模様を作った。一瞬の出来事だった。
そして唖然とする私の前から無言で去っていったのだ。
親切を無駄にできなかった
先生が去った後には、お店で買うような手の込んだ器が残されていた。
しかし、これは私が作りたかった形ではない。しばらく器の前で途方にくれてしまった。
本当は母のためにお抹茶茶碗が作りたかったのだが、プロが作った作品は完璧すぎて手を触れることができなかった。
私はどうすることもできず、そのまま出来上がった作品を担任の先生に持っていった。
先生は小学生らしからぬ作品にビックリして「これきなこちゃんが作ったの?」と聞いてきた。
私が事情を話すと先生は「きなこちゃん本当にそれでいいの?」と聞いてきた。
本当は自分で好きな作品を作りたかったが、先生の作品をつぶして作り変えることは親切を無駄にしてしまうことになるし、申し訳ない気がしていた。
もしそんなことをしたら親切にしてくれた陶芸の先生はきっと嫌な気持ちになってしまうだろう。
それに私が作った下手くそな抹茶茶碗より、プロが作った食器のほうが母も喜ぶに違いないと自分を納得させて先生には無言で頷いた。
食器が焼きあがった日
食器が焼きあがる日まで私はこのことを母に話さなかった。食器を見せてビックリさせようと思ったからだ。
数週間後、教室で焼きあがった食器のお披露目があり、1つ1つ新聞紙から取り出して作った人の名前を呼ばれた。
クラスメイトは釉薬を塗って焼きあがった作品に興味深々で、先生のまわりには人だかりができていた。
食器が新聞から取り出されるたびに「下手くそ~」という笑い声や、自分の作品が食器として形になった喜びにみんな浮足立っていた。
すると突然みんなが「おおー!」「すげー!」という大きな声を上げた。
私は先生が名前を呼ぶ前にダッシュで取りに行った。そこにはお店で売れるレベルのあの食器があった。
私は陶芸の先生が作った作品を胸に抱え、すぐに新聞紙に隠した。
友達に「どうしてこんなに上手く作れたの?」と聞かれたので、正直に「作ってもらった」と答えると「いいなー」としきりに羨ましがられた。しかし、私は自分だけズルをしたみたいで恥ずかしかった。
母親の反応
家に帰って焼きあがった食器を母に見せたらビックリしていた。
母にも陶芸の先生が作ってくれたことを伝えると、「そっかぁ」と言いながらしばらく食器をみつめていた。
私はその時の表情で母が全然喜んでいないことがわかってしまった。
母の顔を見ていられなくなって自分の部屋に戻った。
部屋のゴミ箱には陶芸教室前に描いた完成予想図の絵が捨ててあった。
その絵を見たら、あの日自分の作品を作ろうとわくわくしていたことを思い出した。
私は母に喜んでほしかった。自分の手で好きな食器を作ってあげたかった。でも親切にしてもらったことを断ることができずに受け入れた。
なのに今になって自分はあの陶芸の先生に嫌な感情を持ってしまっている。
私は自分の気持ちに気付くのも遅い。本当は嫌だったのに言えなかった。
親切にしてくれた先生にこんな感情を持ってしまう自分に吐き気がした。お母さんは全然喜んでくれなかった。ズルをしてしまった。
色んなもやもやが胸の中に湧いてきて自分のことが嫌いになり、シクシクと泣くことしかできなかった。
まとめ
あの時どうすればよかったのかと考えることがある。
陶芸の先生は私にだけ作品に手を加えてきた。たぶん見ていられないほど作業が下手だったのだろう。
縁にレースのような飾りを付けたり、底に渦の模様を付けたのは彼なりのサービスだったのかもしれない。
私は私で形を変えられた時に「お抹茶茶碗を作りたい」としっかり先生に伝えるべきだった。
「小さな親切大きなお世話」はいろんなケースで起こる。
- 被災地への千羽鶴
- 好きではない飲み物を奢られる
- 似合わない服をプレゼントされる
- 疲れているのに「元気がない」と飲みに誘われる
- ダイエット中にスイーツの差し入れ
- 親しくない人から手作りお菓子の差し入れ
「せっかく親切にしてやったのだから黙って受け取れ」という考えもあるが、それでは親切の押し売りだ。
例えそれが正しい行為であっても、受け取る側の気持ちによっては余計なお世話になってしまう。
親切を受け取る側も自分の意見をきちんと伝えないとお互い不幸だ。親切を受け取ってから文句を言うのはよくない。
しかし、人間関係を損なわないために、嫌だと思っても表面上は喜ばなければならないケースが多いのも事実だ。
これは親切をする側が事前に相手に選択肢を与えるだけで、ずいぶん結果は変わると思う。
親切とはきっと、受け取る相手の気持ちを含めて成立するものなのだ。
▼「小さな親切大きなお世話」の見本